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初講演その①

皆さん、こんにちは!!

本社工場の目前にある二上山は、鮮やかに色づき、正に今、紅葉の見頃という感じです。

まぁ~それにしてもホントに月日の経つのは早いもので、はや11月も終わりですね。

今年も残すところ、あと1ヶ月となってしまいました。

しっかりと自分達の仕事を全うし、2012年を締めくくりたいものです。

実は先般、自身初の講演会を行いました。

これは、TKC全国会の会計事務所のご依頼を受けて行ったものです。

日本の中小企業は、昭和40年代創業が一番多いといわれています。

そして、ここ10年位の間に2代目へバトンが引き継がれているという構図になっています。

ただ、その後、高度経済成長は止まり、バブルは崩壊し、モノは溢れ、政治は混迷を深め、更にリーマンショックに見舞われ、昨年は大震災、原発問題と、時代は転がる様に右肩下がりへと加速しているというのが現状です。

事業を引き継がれた2代目社長は、その様な時代の憂き目も相まって、業績を落としている会社が圧倒的に多いという状態です。

ある調査によりますと、5社中4社が業績を落としていて、黒字企業は24 %だということです。

当社も同様でした。

創業事業の業績悪化から、事業転換を余儀なくされ、かなりの痛みを伴いましたが、再び成長路線に乗りつつあります。

今はこの方向性を確固たるものにしなくてはなりませんので、部長や課長には喧しく言っているところです。

今回の講演は、その様な成功体験を話して欲しいということが趣旨でした。

私自身、まだまだ成功したとは、おこがましく、微塵も考えていませんが、同じ境遇の方々に、私が行って来たことをお話させて頂く中で何か1つでも2つでも切っ掛けにして下さればとの思いから、僭越ながら引き受けさせて頂いた次第です。

タイトルは、「成長企業へ~2代目社長、苦難の日々を乗り越えて~」というものでした。

まず、当社の変遷を時系列で赤裸々にお話をさせて頂きました。

その時、私が何を思い、何を考え、どの様な手を打って来たかを話させて頂きました。

その次に自社を客観的に把握することの大切さをお話しました。 (自身も客観的に把握することをお勧め致します)

よく耳にするのは、会社であれ、個人であれ、「一生懸命頑張っているのに…」ということです。

今の時代、会社も個人も一生懸命、目の前の仕事をしているだけでは良くなることは絶対にありません。

良くなるとするならば、高度経済成長の時だけです。

今は、どの方向性に向かって一生懸命頑張っているのか?が問われている時代なのです。

従って、現在の自社(個人)を客観的に把握し、その状況を踏まえ、どの方向に進まなければならないのか?を導き出す必要があるのです。

私は現状把握においては、次の2点が重要だと考えています。

まず1つは、自社分析です。

自社の①技術力(商品開発力)、②営業力、③顧客、④人材、⑤財務体質、これらを客観的に分析をしなければなりません。

それともう1つ、「市場における自社の位置」これが重要です。

市場を川に例えた場合、その源泉は時代やマクロ的な政治、経済であると思います。

その源泉によって作り出された川という名の市場は、水量が多い時や少ない時、魚が豊富に捕れる時や捕れない時、その折々によって様々な状況に変化します。

また、川の上流は流れが激しく、下流は流れが緩やかであるというのも川の1つの特徴です。

川という名の市場で、自社はどの位置で漁を行っているのだろうか?

これが市場における自社の位置を把握するということです。

一般的に、上流であれ下流であれ、川に面して漁を行っている位置の会社はBtoC企業だろうと考えています。

果して自社は?

本流から外れた支流の、しかも末端あたりで漁をしていませんか?(当社の創業事業が、この位置でした)

もしそうであれば、今の時代、水量が激減していて、もはや魚も捕れにくくなって来ている筈です。

だから、いくらそこで一生懸命、魚を捕っているといっても以前の様な大漁にはならない訳です。

そこで漁をするならば、仕掛けを変えてみる、それでも駄目なら、魚がいそうな位置へ行ってみる、この様な方向性を打ち出し、それに向かって一生懸命頑張らなければならないのだろうと思うのです。

「自社の分析」「市場における自社の位置」これらを客観的に把握し、自社の強みと弱みを認識して、今の事業はあと何年位大丈夫なのか?を掴んでおくことが肝要であると考えています。

事業は人と同じで必ず、寿命が来ます。

それが上述の分析によって、あと5年なのか?10年なのか?30年なのか?これを把握し、その間に、次の事業へとスムーズに移行しなければなりません。

この手が遅れれば遅れる程、痛みを伴いますし、会社が窮地に立たされることになると考えます。

例えば、かつてカネボウという会社がありました。

当初は紡績を主たる事業とし、その後、化粧品事業を展開し急成長、しかし、それに胡座をかいた訳ではないかもしれませんが、結果的に次に繋がる事業が芽生えず、最終的には寿命がつき、会社再建に伴い、事業譲渡などが行われました。

「経営は多角化でなければならない。」

かのドラッカーもまた、その様な見解を出しています。

昔、高度経済成長の時には「この道30年」と諸先輩方から、よくお聞きしたものです。

カッコいい言葉です。

しかし、一度、客観的に自分に問い掛けてみて下さい。

「たまたま、時代の後押しがあって30年間、仕事が出来ただけではないのか?」と。

自社も自身も、客観的に謙虚に考えた時、初めて、次なる道が見えてくると思うのです。

今週は、まず自社を客観的に把握することの大切さをお話させて頂きました。

そして次週は、私自身が試行錯誤した後に、漸く辿り着いた「成長企業への5つの柱」についてお話をさせて頂きたいと思います。

宜しくお願い致します。

中国工場設立10周年

皆さん、こんにちは!!

随分と秋深くなってきました。

あちらこちらで紅葉の見頃との便りも聞こえて来るようになりました。

また、明日から3連休というところも多いと思います。

今年最後の行楽シーズンですので、お出掛けになられてはどうでしょうか?

話は変わりますが、先週から今週に掛けて中国のスタッフが訪日をしています。

2002年9月、今後を見据えて中国の連運港というところに独資で中国工場を設立しました。

それから丁度、10年が過ぎたことになります。

設立当初、何もかも事情が違う中国において、以前より仕事での関係があり、信頼出来るであろう中国人を総経理とし、弊社スタッフがフォローし、暗中模索、五里霧中、紆余曲折しながら進んでいました。

2003年、サーズ問題が中国で発生し、弊社スタッフが数ヶ月、訪中出来ない状況になりました。

その後、再び訪中した時、工場の荒廃化が人を中心に広がっていました。

労働争議、噂、抽象誹謗、リベート、税関関係者との問題、弊社スタッフの軟禁などなど日本では考えられない事態にも幾度となく直面をしました。

当時、責任者として訪中していた弊社スタッフの心労を考えると申し訳ない気持ちになります。

大鉈を振るい、総経理、副総経理など悪玉を一掃して中国工場も平穏を取り戻し、前に進み出したかに見えても、また、同じようなことが起こってしまうのが現状です。

弊社日本人スタッフも頑張ってくれましたが、結果的に軌道に乗らず、「このままでは、歯止めが効かず闇雲にお金が出ていくだけだ」「折角、日本の会社は改革を進めているのに共倒れになってしまう」「それに、これ以上日本人のスタッフに心労を掛けられない」との考えから、独資工場の経営権を法人代表も含め、無償譲渡する決意を固めました。

これは1つの大きな賭でした。

当時、中国工場は日本の会社(コシオカ産業)の主要顧客の主要商品群を生産していましたので、万が一、生産に支障をきたしてしまうと日本の会社そのものが窮地に陥ってしまうという事も十分、考えられる事でした。

しかし、当時の中国工場の事情や将来的に考えた時、可能性としては、経営権を無償譲渡した方が、僅かでも歩があるという究極の選択だったのです。

そして誰に経営をお願いするか?が最も重要で失敗の許されない人事でした。

中国工場は、プラスチック成形品を主に生産していますが、その設立と時を同じくして、金属製品を主たる生産として起業された青島にある吉栄という中国会社の社長がおられます。

誠実な人柄で弊社も金属製品を生産する際には、その会社に依頼をしていました。

当時は100%弊社の製品を生産していて、弊社の成長と共に、その会社も成長をして行き、その社長とは家族ぐるみのお付き合いです。

その彼に弊社の中国工場の経営をお願いすることにしました。

何点か問題点もありましたが、2007年7月、最終的には合意に至り、経営権を無償譲渡することになりました。

それ以降、当然ながら中国工場の雑音は消え、まずはスタッフの心労がなくなり、目に見えた経費だけでも随分削減出来たものです。

その後、生産性も高まり、品質、納期も問題はなくなり、逆にコストダウンも出来ました。

彼のお蔭で中国工場は完全に軌道に乗りました。

中小企業の中国工場運営には困難を極めている会社が多い訳ですが、私達は人に恵まれ運よくスムーズで合理的な関係が保たれています。

今回、中国工場の10周年を記念して、私が現地に赴き、祝いをする予定でしたが、その彼の提案で、「設立期から今まで頑張ってくれた中国工場のスタッフ数名を日本に連れて行きたい」との申し出があり、冒頭の来日という運びになったのでした。

「十年一昔」と言いますが、上述の様な変遷があり、今日の中国工場の繁栄を考えると感慨深いものがあります。

中国工場のスタッフも日本に来れてモチベーションが上がると思いますし、現場見学や仕事に関する考え方、日本文化に触れ、何かを学び、何かに気付いてくれることでしょう。

それが自身を成長させ、企業を発展へと導いてくれると思うのです。

帰郷

皆さん、こんにちは!

まず最初にお詫びを申し上げなくてはなりません。

前回のブログですが、先週の金曜日に下書きを終えていたのですが、私の不注意から公開するのを忘れていました。

チェックをしていたところ気がつき、慌てて一昨日の公開となってしまいました。

時系列で可笑しなところがあるのはその為です。

申し訳ありませんでした。

さて、今日はその奄美大島慰安旅行の回想録というところでお届けをしたいと思います。

日程は先週の金曜日から今週の月曜日までで、第1班は金曜日から日曜日まで、第2班は土曜日から月曜日まで、その中で私は立場上、金曜日から最終の月曜日までという形で奄美大島に行って参りました。

初日は奄美唯一のゴルフ場で南国のゴルフに興じました。

2日目は2班も合流し、奄美観光に出かけました。

奄美パークというところをまず見学しました。

ここは、昔ながらの奄美の生活の様子などが展示されていて、食事も取ることが出来ます。

そこで、郷土料理の鶏飯(けいはん……これはご飯の上に、鶏のササミ、錦糸玉子、海苔、椎茸、などを乗せ、だし汁をかけて茶漬けの様にして食べます)を食し、マングローブ、大浜海岸、ミニ水族館などを回りました。

天気は少し悪かったですが、大阪では見ることの出来ない自然に懐かしさを感じました。

その晩は、歌手や躍りの人達にも来てもらい、奄美民謡などを披露して頂き大宴会と化しました。

以前にもお話しましたが、私の母は奄美出身で中学を卒業して大阪に来て以来、1度も奄美に帰ったことがありませんでした。

そして母は今年でめでたく喜寿(数え77歳)を迎えることが出来ました。

この祝いを産まれた故郷でしてあげたいと以前より考えていて、その宴会の場でサプライズプレゼントをみんなから渡し、大いに盛り上がった宴会となり、夜遅くまでみんなと酒を酌み交わしました。

そしていよいよ3日、母の故郷である奄美市龍郷町幾里秋名(たつごうちょういくさとあきな)に行ってきました。

龍郷町は山合に数十件の集落がいくつもあり、その内の1つが幾里というところです。

田畑を耕し、ほぼ自給自足の暮らしに近い状況です。

その昔は、隣の集落に行くにしても山を越えて行かなければならなかったらしく、当時の中学も山を越え、毎日1時間以上かけて通っていたといいます。

現在はその山々にトンネルが出来、各集落に行くにも随分と便利になった様です。

何せ60年振りですので、道もアスファルトに代わり、回りの建家も変わっている訳ですが、産まれた家や育った家はそのままあり、また、遊んだ川や海はそのままです。

それらを歩いて回り、墓参りを済ませ、母の姉の家で少しゆっくりと過ごさせて頂き、秋名を跡にしました。

その後、出身の小学校、中学校を回りました。

小学校は歩いて行ける距離にありましたので、散策をしながら小学校までいきました。

日曜日でしたので、誰もいないのでは?と思いながら行った訳ですが、たまたま校長先生が用事で来られていて、事情を話したところ、親切にも昔の資料を引っ張り出して頂き、卒業写真を発見することが出来ました。

そして、中学校に行きましたが、ここでもたまたま、テニスをしていた中学生がその中学の校長先生のお子さんで、休みだった校長先生や教頭先生がわざわざ駆けつけて来て下さいました。

そして校舎を案内して頂き、卒業名簿も頂くことが出来ました。

先程の小学校の校長先生も同様ですが、中学の校長先生や教頭先生、そしてテニスをしていた子供達もバスが見えなくなるまで手を振って見送って頂きました。

果たして、私達が暮らす大阪ではこんな対応をしてくれるのだろうか? と自身も含めて疑問を持たずにはいられませんでした。

この人里離れた場所に暮らす人々は、田畑を耕し自給自足の暮らしをし、自然と共に時間が流れている、そんな感じします。

経済的には貧しいという事かもしれませんが、心の有り様は私達より遥かに豊かだと思います。

帰る日、真っ青の晴天となりました。

空港には叔母、従兄弟が見送りに来てくれていました。

そして、また、飛行機が飛び立つまで大きく手を振り見送ってくれました。

飛び立った眼下には、青く美しい海と山々が広がっていました。

私の身体にも奄美の血が半分流れています。

この土地で暮らしたことはありませんが、何故か?懐かしさと寂しさで感極まりました。

今回の旅行は日頃私達が忘れていた思いを再び思い出させてくれました。

やはり、この世は人対人、人の心を動かすのは、真っ直ぐで誠実な心の温かさであると。

この時期に社員達の総意で奄美大島に来れた意味をみんなで認識をし、今一度、足元を見つめ直し、更なる飛躍に結びつけなければならないと強く強く、心に誓った次第です。

この慰安旅行を実現させてくれ、また、母を60年振りに帰郷させる事が出来、そこで喜寿のお祝いも出来、親孝行の真似事もさせて頂くことが出来ました。

改めて社員の方々に深く深く感謝申し上げます。