父 13回忌 ~回想録 完結編~

皆さん、こんにちは!!

まぁ~暑いですね。

梅雨も明け、本格的に夏、到来という感じです。

水分補給をマメに行い、熱中症、脱水症状には、充分ご注意を下さい。

ここ2週、父13回忌回想録をお届けしています。

12年前、父の告別式も6月にも関わらず、無茶苦茶、暑い日だったのを思い出します……。

さて、いよいよ今週は「回想録完結編」をお送りさせて頂きます。

…………(完結編)創業事業が転がる様に、毎年売上を下げていました。 頼みの綱だった東京の売上も、私が大阪に戻った2年目から激減していきました。

営業による新規活動もままなりませんでした。(社員達は頑張ってくれていたものの、不定期的な活動に終始し、僅かにあっても、売上が下がるスピードが断然早いという状況でした。もはや、創業事業が末期を迎えていることは疑い様のない事実でした)

従って、その営業活動のみに頼らず、まず、目先の落ち込みを防ぐ為、仕組みによる売上の安定増加を図るものの、付帯経費が重く、なかなか利益の出ない年月を送っていました。

事業転換用として用意していた資金も底をつき(06年~09、10年初めまで、資金繰りに追われる毎日でした。私はこの時期を「暗黒の5年」と言っています)、会社倒産のカウントダウンが始まっていました。

会社は赤字では倒産をしません。

資金が枯渇し、調達出来なくなるから倒産をするのです。

06年11月、最初のピンチがやって来ました。

それまでの数ヵ月、様々な金融機関へ資金調達のお願いに回りましたが、全て断られている状況でした。

そんな最中、それとは裏腹に、9月には、社員全員を自社中国工場へ連れて行きました。

何故?????

答えは、社内外(中国工場及びその関係者も含め)に不協和音が出始めていたからです。

会社の調子が悪くなると、微妙な空気が、社内外から出てくるものです………。

連れて行こうが?連れて行くまいが?11月に不足している金額からは微々たるもので、資金繰りに極端に影響を及ぼすものではないと判断したのと、あとは、会社内外の空気が悪く、風評を抑える、そして、社員達の結束と奮起を促す、そんな思いで決行したのでした。(これが最後の慰安旅行になるかもしれない……そんなことが脳裏をかすめたりもしましたが……)

運命の11月、メインバンクにお願いに行きました。

もう、腹は決まっていました(俺は逆境に成れば成る程燃えるタイプだ。そして、人一倍、運が強いと自分に言い聞かせ………因みに、私も含め、子供達3人共、全員5日生まれです)

支店長は何人目かに変わっていました。

激烈な皮肉を言われたもの、何とか調達が出来ました。(この時の屈辱は生涯忘れられません………ただそれが私の発奮材料の1つになっていることも事実で今は感謝していますが……)

この年の11月は、実に色々なことがありました(こういう時には、不思議と問題が重なるものです)

義父の緊急手術、(家内が東京にいるので、その変わりといったら何ですが、毎晩仕事が終われば見舞いに行っていました)娘の入学金の段取り、甥っ子の政治活動の応援、そして、肝心な会社の命運を賭けた資金繰り………。

そして……11月末には、紆余曲折あったものの、どうにかこうにか全て無事解決をすることが出来ました。

本当に安堵しました……。

その晩、地域の友人(Oさん・Nさん)を誘い、飲みに行きました……当然そんな話はしませんでしたが、飲みたい気分だったのです。(付き合ってくれたことに感謝)

しかし、この11月12月に、予定の売上が達成されなければ、次は1月にまた、資金が不足をすることになります……。

そして、その年の暮れ…………案の定、売上は未達に終わってしまいました……。(それでも11月のこともあったので、正月を無事迎えられたという安堵感も何故か?ありましたが……)

そして年が明けた07年1月、再びメインバンクへお願いに行きました。

私は資金調達ではなく、リスケ(返済の組み換え)の要求をしました。

11月のことがあるので、恐らく新規借入は難しいだろうと判断をし、様々な資金繰りのシュミレーションをし、それに基づく、リスケの要求に全てを賭けました。

押し問答が続きます………。

私は、「事業というものには必ず終焉が来る。私達の事業基盤は脆弱な上に成り立っていたから、早くに事業転換の道を歩まなければならなくなっただけで、それを応援するのが、メインバンクの務めである。いずれ間違いなく、遅かれ早かれ、東大阪の中小企業は、今のままなら疲弊する。当社だけが特別悪い訳ではなく、時代、そして産業構造の転換期である」と。

その後…08年のリーマンショックもありましたが、私が言った通りに時代は進んで行きました。

押し問答の結果、私の要求は何とか通り、また1つ、難を逃れました。

しかし、支店長からは、その時、「次にこの様な事態に陥ったら、東大阪の自宅は売却してもらいます。よろしいですね。」と釘を刺されてしまいました。

それから、銀行指導の基、外部監査が入り、会社の徹底的な調査、検証、分析が行われ、「経営改善策」が練り上げられました。

また、売上・利益の裏付けも徹底して行われ、それに伴う資金繰り表を作製し、その「経営改善策」「資金繰り表」にのっとり仕事を進めて行くことになりました。

しかし、また、僅かながら売上が予定を下回り出しました。

そして遂に、6月資金がショートするという事態になってしまいました。

銀行とのリスケ期間は半年間でした。

何故なら、そこをクリアすれば、暫くは資金が繋がる状況だったからです。

あともう1ヶ月というところで資金がショートしてしまいました………もう……目の前が真っ暗でした。

メインバンクに言えば、自宅を売却しなくてはなりません。

今まで、家族が「当たり前の生活」をしてきた住処です。

私にとっても、家族にとっても、親族にとっても、そして会社にとっても、城ともいうべき場所です。

金融機関を隈無く回りました。

またまた、ことごとく、断られていました。

流石に、落ち込みます…………。

家族、社員、みんなの顔が浮かんできます………。

「ここで諦めたら、今まで、苦労して来たことが全て無意味だ。結果を残して初めて、今までの苦労が報われるし、次に繋がることになるのだ。みんなの当たり前の生活を守る為にも、結果が出るまで、やりきるんだ」と、……もう一度、自分を奮い立たせ銀行を回る日々が続きました。

そして、今までのありとあらゆる人脈、ツテを頼って、ある銀行に辿り着きました。

しかし、その銀行のどの支店に行くか?

人は合縁奇縁というものがあります。

人脈を頼りに話は聞いてくれるものの、その支店長の捉え方によって、結果は違ったものになってしまうものです。

何支店か?を回り、店の雰囲気、また、支店長らしき人物の人相や態度をチェックしていきました。

そして……ある支店に決めました。

根回しをし、5月、ゴールデンウィーク明けの最良の日に行くことにしました。

その時のゴールデンウィークは東京に戻り、次なる闘いに向けて、しばし、心の洗濯をしていました。

しかし、なかなか寝付けない日々が続き、連日観客の少ない、夜中の映画館に行き、ボ~っと映画を鑑賞していたのを思い出します。

最悪の場合、自らの命をもって、みんなを救わなくては………。

そうすれば、何年間かは安泰だろうし、そのうちに少しは、みんなも成長し、「本気」になるだろう……。

信用をしてくれた方々に迷惑は掛けられない………。

などと考えながら…………。

そして、またまた運命の5月ゴールデンウィーク明け、決めていたある銀行のある支店に行き、支店長と新規融資の話し合いに臨みました。

よい感触でした………。

少し、ホッとしました…………。

しかし、結論は後日ということでした。

メインバンクとの約束の期限が迫って来ます。

かといって、焦って連絡をしたのでは足元をみられてしまいます。

ここは泰然自若……………。

5月末……吉報が届きました。

全ての努力が報われた思いがしました。

自宅売却は寸前のところで回避でき、且つ要望通りで好条件の結果を得ることが出来ました。

捨てる神あれば、拾う神あり……。 情けは人の為ならず………。

やはり、この世は人対人です。

いくら、デジタル化、情報化が進もうが、そして1000年先であろうが……全ての基本は人対人だと思います。

だから、まずは「自らの質」を上げて信用、信頼される人物にならなければならないと考えています。

私自身、この様な辛く、苦しい経験を重ねさせてもらったお陰で、人の痛みや優しさが、今まで以上に深く、わかる様になってきた様に思います。

そんなことから、もし私の回りの人が困っていて、相談があった場合、私に出来る最大のことはさせて頂こうと心掛けています。

話は、余談ですが、この頃、地域でも問題が発生し、私としては、会社がこの様な状況でしたので、精神的にも、物理的(東京にも出来るだけ帰る必要があったので……)にも率先して動ける状態ではありませんでしたが、みんなが困っているならば、この際、何もかも一緒のことだと思い、私が出来る最大のことを引き受けさせてもらいました。

また、公私に渡ってお世話になっている方からも、人の採用のお願いがありました。

会社の内情を一番知っている方でした。

内情を知りながら、お願いをするということは余程のことだと考え、何も聞かず採用を決めました。

これらは、上述の様な人の情けに数々触れて来たから、自分が困っていることだけを理由に、無下には出来なかったのです。

話は戻りますが、6月以降は、少しの間、資金は続きましたが、それでも実質営業利益が出ていない状況とキャシュフロー赤字は依然、続いていましたので、資金のショートは幾度となく起こっていました。

当時は、保険も含め、現金化出来るものは全て解約し、資金繰りに使ったり、母や妹の貯えを資本に参入してもらったり、私自身も個人的に借入て、資金繰りや社員のボーナスにあてたりもしました。

身内には給料を待ってもらうことも、しばしばありました……。

また、銀行の担当者に自宅まで来てもらい、家にある全てのお金をかき集めて渡したこともありました。

当然、この頃はまた、経費は使えませんので、様々な付き合いは、殆ど自腹、出来るだけ東京へも帰らなければならないので、1回は会社に負担をしてもらい、残りは何回帰ろうが全て自腹でやりくりをしていました。

一方、家庭にあっては、子供達も成長をし、今までのマンションでは手狭になってきました。

ちょうど、大阪で売却したマンションの残債も終わった時でした。

今までは、賃貸マンションで、会社からの社宅費+自前で賄っていました。

それに加え、私には残債があったという具合です。

残債が終わったのですが、これをあるものとして考えた場合、残債分+自前で毎月支払えば、新しいマンションを購入出来る位の金額になりました。

そこで、少し無理をして、マンションを購入することにしました。

そうすることにおいて、子供達の環境を改善してあげれますし、何よりも、徹底した経費削減を勧めていましたので、会社からの社宅費を削ることにも繋がります。

また、先々、何かあった時、売却することも可能ですし、担保物件にも使用出来る可能性がある………。

そんな考えから判断をしたのでした。

これと時を同じくして、中国工場の経営権も、信用出来る中国の方に無償譲渡しました。

何故なら、設立時から何年経っても、なかなか軌道に乗らず、経費や足かせの部分も多く、かなりの額がキャシュアウトしていましたし、現地に赴く社員達の気苦労も軽減してあげなくてはならないとの考えから、決断をしたのでした。

1つの大きな、大きな賭けでした。

譲渡候補は2人。

1人は、大学の教授で且つ企業経営者。

もう1人は、叩き上げの企業経営者。

人物的には、2人共、信用・信頼の出来る人達で問題はありません。

しかし、スキルは前者が上、行動力は後者が上、という感じです。

私は、様々なことを抑えることの出来るであろう、後者の人を選択し、経営権を無償譲渡しました。

もし、上手く行かなかった場合、生産が滞り、当社の売上に多大な影響を及ぼすことになります。

そうなれば、恐らく、もうアウトです。

かといって、今のまま続けていても、いつ?軌道にのるのか?全く見えず、その期間、キャシュアウトが続くことになります。

これも長引けば、アウトです。

究極の選択でした。

生産が上手く行くか?行かないか?は、任せて見なくてはわからないこと。

今、わかっていることは、毎月、中国工場向けに、計算外の資金が出ていることでした。

まずキャシュアウトしている現実を抑える方が先決だと判断し、相手にとって、リスクを極限まで抑え、速やかに態勢移行出来る様、条件を付けずに無償譲渡という道を選択したのでした。

結果的に、その人は予想以上に早く、工場を軌道に乗せてくれ、その後、余分な資金が当社から出ることがなくなったばかりか、中国工場関連の雑音が一切なくなりました。

また、生産性も高まり、コストダウンも行うことが出来ました。

更に、支払いを当月末締めの翌月末送金に切り替えてもらい、資金も1ヶ月プールすることが出来ました。

加えて、当社にとっても、社員達が中国に頻繁に行かなくても良くなり、それだけでも、大幅な経費減になり、大英断は大成功をする結果となりました。

今も自社中国工場は、順調に推移しています。

あの時、もし、そのまま続けていたら…………。

あの時、もし、相手が受けてくれなかったら…………。

受けてもらっても、もし、生産が滞っていたら…………。

つくづく私は人に恵まれていると思います。

その中国の方には、本当に感謝しています。

また、この時期、経理をしている妹は心労からか?心臓の不整脈を発症してしまいます。

日々の資金繰りで、経理として、あの数字を見たら誰もが精神的に身体を壊すかもしれません。

申し訳ない思いです。

私は比較的、プレッシャーに強い方だと思いますが、寝れない日々を随分と過ごしました。

また、この数年前から、頭も薄くなり、糖尿病を患ってしまいました。

今、思うと相当のストレスが掛かっていたのかもしれません。

………それでも、前に進まなくてはならず、1つ1つ課題を解決して行くものの、まだまだその後も、資金繰りに追われる日々は続いていました。

創業事業は相変わらず売上が、下がり続けていましたが、100均業界向けサービスは仕組みとして機能し始め、実質営業利益は出ていなかったものの、売上は安定増加をし、ようやく、創業事業売上+100均売上が昨年比を少しずつ上回りだしました。

この100均業界向けサービスにおいて力を発揮して頂いているのが、出荷に携わるパートの女性の方々です。

彼女達は、大変優秀です。

そして、そのチームを導いているリーダーの方がとても優秀な方なのです。

リーダーが優秀だからチームがまとまって見えます。

チーム内では優秀な方も、普通の方もおられると思います。しかし、リーダーがしっかり管理している状況であれば、たとえ、チーム内に何か?あったとしても、全体は優秀に映るものです。

彼女は経営的な考えに立ち、常に効率性を高めることを念頭に置き、目に見えた改善とチームをまとめる努力をされて続けています。

そして、それに伴う結果を出し続けてくれています。

本来、正社員が喧しく言って、パートの方々に仕事をして頂くというのが一般的だろうと思いますが………。

まだ、当社では、そこを経営的な考えから指導出来る正社員は育っていませんので、もし、万一、普通の考えのパートの方々だったら、私が直接、経営的な観点から管理、指導をしなくてはならないところでした。

そういった意味では、私の時間を割かなくてもよく、全幅の信頼をおいて任せることが出来ています。

これもつくづく私は人に恵まれていると感じています……感謝。

そんな、みなさんの努力もあって、仕組みによる売上は安定増加して行き、創業事業の落ち込みをカバーするまでになりました。

そうすると、金融機関は、1つの指標として成長していると好意的に捉えてくれますし、月商倍率(借入÷月の売上)が良くなることから、比較的融資に前向きになります。

だから売上(適正利益の伴う)は落としてはならないのです。

しかし、まだ、実質営業利益が出ず、キャシュフロー赤字が続いていましたので、場当たり的な資金繰りに終始せざるを得ない状況に代わりわなく、それでも様々な方々の合縁奇縁により、その時、その時を何とかクリアして来れました。

本当に出逢う方々に恵まれた……。

ただ、ただ、私を信用して頂き託して下さったことに感謝しています。

振り返ると、この何年間かは、断崖絶壁の上にある蜘蛛の糸を渡っている、そんな心境でした。

今年も無事、正月を迎えることが出来た………。 (正月には親友達が毎年やって来ます。もう、かれこれ30年以上になると思います。これも、私にとっては、当たり前の生活で、当時は親友達と迎える正月が、かけがえのない、心の安らぐ時間でした……感謝、感謝)

今年は無事、父の7回忌を済ますことが出来た………。

こんなことを思いながら、日々そして毎年毎年、過ごしていた様に思います。

しかし、不思議と、いつも、最後の最後で首の皮1枚繋がり、切り抜け て来ることが出来た様に思います。

これも、今、思うと父の導きなのかもしれません。

…………創業事業が下がり、仕組みによる売上の安定増加も、ほぼ計算通りに進み出し、2つ足して、売上が昨年比を上回り始めたものの、実質営業利益を創出するには、100均向けへ商品を導入し、仕組みによる売上の底上げをする必要がありました。

それを早急にしなければ、大鉈を振るわなければならない………。

しかし、それは何としても避けなければならない………。

実はこの時期には、「一般管理費削減5ヶ年計画(4000万円)」は1年前倒しで達成していました。

勿論、私の給料は真っ先にカットしながら、削減を急ピッチで進め、削るところは全て削った状態でした。

大鉈のあと1つを除いては…………。

その大鉈とは……社員達の給料です。

これを行うと、「社員達の当たり前の生活」を損なうことになります。

だから、それを避ける為にも、仕組みによる売上を上げ、実質営業利益を出さなければなりませんでした。

そんな折、ある営業マンが売れるであろうアイテム群を見つけて来ました。

私は「これは売れる。これで底上げが出来る。損益分岐点も経費の大幅削減で、かなり低くなっている。 これで間違いなく利益を生み出せる」と確信をし、即、その会社の社長を訪問し、安定購入の手配を取りました。

売上は予想通り、仕組みの中で順調に上がって行きました。

しかし、利益が出ません。

在庫過多でした。

当時、担当者には「在庫が10%多い」とよく注意をしたものです。

結局、売上は昨年比1億アップしたもののキャシュフローは実質赤字に終わってしまいました……。

もう………愕然としました。

売上が増え、しかも実質営業利益が出ないということは、それだけ、在庫が増えていて、資金が寝ている状態です。

また増加運転資金が余分に必要になって来ます………。

もう……限界でした。

前述にも話しましたが、当時は管理を上位者から順にしてもらっていました。

私が社長に就任した当初、専務時代には経理以外は全て管理していたのですが、それは流石に無理だろうと思い、1人は営業全体、そしてもう1人は工場全体を管理してもらう形でスタートをしました。

それを実行してもらい、結果を残すことで、給料を担保してあげれるとの考えもあったからです。

しかし、なかなか上手く行かず、管理面においては、徐々にその人の能力に合わせて、範囲を縮小したり、また、人を代えたりという感じで試行錯誤しながら進めて行かざるを得ない状況でした。

まだ人が育っていませんでした。

そうなると、自ずと結果は伴いません(みんな一生懸命であることは間違いないのですが………)

前述で、メインバンクから、当社への外部監査が入った話をしました。

実は、その時、真っ先に指摘を受けたのが、「経営幹部の能力不足」ということだったのです。

腹が立ちました………。

社内的には、管理職の方々に、喧しく言って来ましたが、他人から社員達の悪口を言われると、無性に腹が立ちます。

これも、全て、しっかりと教育をして来なかった社長である、私の責任です。(現在は、教育も外部提携し、システマチックに行う仕組みが出来上がっています)

「早く、しっかりしてもらいたい」という思いと、みんなが関わっていた創業事業は、各々の新規開拓もままならず、売上が下がり続けている状況なので、給料を上げてあげるにはどうしたら良いか?と考えた時、利益管理が出来、その結果が伴えば、上げてあげることが可能になる、そんな親心も相まって、各々にチャンスを与えていたのでした。

親の心、子しらずと言いますが……。

しかし、もうそんな悠長なことを言っている場合ではありませんでした。

……限界でした。

これ以上、みんなに管理を任せられませんでした…………。

それを続けると、間違いなく、近い将来、みんなが路頭に迷う結果になることは、火を見るより明らかな状況でした。

もう……私達に残された時間は、あと1年……いや、あと半年に迫っていました。

そこで、全ての社内外のしがらみを捨て、導入が遅れていた管理会計を取り入れ、財務からの指導をしてもらうと同時に、全ての部署を社長の直轄管理にしました。

それは、全てを陣頭指揮で行うということを意味します。

兎に角、今までの培って来た私の全てを賭けて、全身全霊で100%やりきる!!

もし、それで駄目なら……その時は…………………………………。

当時の私の思いは、私自身が、やるべきことを全てやらないで、社員達を路頭に迷わすことがあったら、悔やんでも悔やみ切れない。

今まで、様々なことが社員達にあったとしても、全ての責任は社長である、私にある。

だから、最後は私が全てを賭けて、直接、これに臨み、必ず解決して見せる!!!

こんな覚悟を持って、直轄管理にし、日々、ミーティングを重ねて行きました。

①情報を的確に速やかに吸い上げ、そして、素早く手を打つ、いわゆる経営判断のスピードをあげること。

②管理会計から見た財務課題を、吸い上げた情報を基に事前に手を打っておくこと。

③そして、100均向けサービス事業の利益改善。

④新ビジネスモデルの構築。

⑤管理職及び社員の直接教育と指導。

これらを早急に形にするべく社長直轄管理としたのでした。

いよいよ、負けることの許されない、最後の闘いが始まりました。

①②⑤は適宜、実施して行くことなので問題はありません。

最優先課題は、②の仕組みの中で売上を安定増加させ、利益を確保する、これが何といっても緊急を要する最大の課題でした。

そして③の新ビジネスモデルの構築でした。

これはこれまでも、出来ることから並行して進めていて、08年には大阪府から経営革新事業として認可を頂くまでになっていて、考え方としては成立していました。

新ビジネスモデル(TMSシステム、ホームページをご参照下さい)のキーポイントである3D-CAD に関しては、02年から少しずつ勉強をさせていた者が、紛いなりにも出来る様になっていました。

そして、企画、デザイン、市場調査が行えるデザイン会社も目星が付きました。

最後のパズルのワンピース、画期的な試作システムが見つかりませんでした。

……そして、ある人の情報で画期的な試作機が展示されているということでしたので見学に行きました。

「これだ!!」私は見た瞬間、叫んでいました。

それは、現在、俄に、脚光を浴びている3Dプリンターでした。

当時、私は、3Dプリンターという言葉さえ聞いたことはありませんでした。

しかし、私が、試作プロセスで、画期的な試作機を探していて「こうこう……こういう試作機があれば……」と投げ掛けていた要望と合致したのが、今でいう3Dプリンターだったのです。

正直、あれから何年間か経ち、3Dプリンターがこれだけ注目を浴びる存在になったことには驚いていますが………。

とにもかくにも、これで最後のワンピースが埋まり、新ビジネスモデルを推進して行くだけの、ベースのネットワークが構築されました。

当然、これからもシステムの進化・改善は必要です。

何事もそうですが、まず、ベースをしっかりと構築すること。

全て最初から、何もかも完璧で、構築以降は何もしなくても大丈夫、ということは、何事においても有り得ません。

あとは、実行しながら、それらに適宜、肉付けをして行く、これだけのことです。

ただ、構築は出来たものの、案内活動は「笛吹けど踊らず」といった状態でしたが………。

しかし、取り敢えず、次の成長戦略の核となる新ビジネスモデルは構築出来ましたので、もはやあとは、上述の②最大の課題解決だけとなりました。

これを解決し、安定的な売上増加とそれに伴う営業利益を確保すること出来れば、新ビジネスモデルを定着させ、会社を成長へと導いて行ける時間を稼ぐことが出来ます。

少し、長い長いトンネルの出口が、ようやく、うっすらと見えて来ました。

直轄管理を実施して、最大の課題である②に取り掛かりました。

丁度その頃、当社には埋もれていた優秀な人物がいました。

中国の人ですが、私は彼を見て、仕事に飢えている様に感じていました。

本当の仕事がしたい、本当の仕事を覚えたい、その様に私に訴え掛けている様に、私は感じていたのでした。

これから、益々、中国とのパイプを太くして行かなくてはならない時期でもありました。

当社においては珍しいタイプでした。

「コイツとなら、残された短い時間の中で、結果を出すことが出来るかもしれない!!」

そう思い、私の管理下に置き、彼と二人三脚で改革に取り組んだのでした。

さて、②の課題は、大きく2つの問題が原因です。

1つは、在庫の問題、2つは単品利益率の問題でした。

まず、在庫の問題。

これを解決するには、生産リードタイムを短縮する、商品アイテム数を減らす、発注ロットを適正化する、これらが王道です。

当然、これらは実行していきました。

私達は、もう1つ、発注管理によって在庫を最終管理する、こういう方法を確立して行きました。

私達は、ここ何年間かのデータを常に蓄積しています。

今までもそれに基づき、発注が行われていましたが、その目的は「欠品をしたくない」という概念だけによるものでしたので、どうしても10%強、在庫が増えてしまっていました。

当時、「これだけ仕入があるから、これ以上売らなければ、実質利益が出ない」などと購買に携わる人が言っていたのを思い出します。

それは無茶苦茶な論理です。

私達は、もう一歩踏み込んで、発注の目的は「粗利額を確保する為の発注」と位置付け、蓄積されたデータから、「まず、今のアイテムで来月、どれ位の売上が創れるか?を弾き出しました。そして、次に、今の単品利益率なら、その売上に対して、どれ位の仕入が可能なのか?仕入限度額を弾き出します。そして、最後に、その仕入限度額の中で商品の欠品をしない為には、何個仕入れる必要があるのか?」この様な論理的思考、逆算的発想に基づき、ブレークダウンし、発注管理を徹底させ、最終的な在庫管理を行っていったのでした。

彼は、性格的に素直で資質とやる気が備わっており、教えれば教える程、考え方を吸収して行きました。

今では、全幅の信頼をおいて任せることが出来ますし、この発注管理もシステマチックに行える様になっていて、今まで2~3人が携わり、結果の出なかった購買セクションが、僅か短時間で業務的に処理出来、、しかも進捗管理が同時に行えるシステムに生まれ代わり、「売上から見た適正在庫」を実現し、毎月コンスタントに計算された適正利益を積み上げることの出来る仕組みが構築され、在庫の問題に関しては、簡単に解決をしました。

そして2つ目、単品利益率の改善です。

直轄管理を始めて、また、新しい年度が始まりましたが、またまた、創業事業が勢いを増して、落ち込む気配でした。

当初、計画していた利益率改善計画を前倒しをして、即、中国に飛び、実行に移しました。

この計画の柱は、国内生産から中国生産への移行でした。

当時の主力商品は国内メーカーから買っていました。

私も出来るだけ、今までお世話になった仕入先を大事にしたいとの思いもありましたが、丁度その仕入先の社長から「これ以上、あまり取り引きを増やしたくない」との連絡がありました(何か?金融関係から当社の噂が入ったのかもしれませんが………ピンチはチャンス!!私にとっても渡りに船でした)

また、それ以外にも対応の悪い仕入先もあり、それらの仕入先の商品群を全て、中国生産に切り替える計画でした。

ここでも、彼は大活躍をしてくれました。

広大な中国の地を彼と二人で、仕入先を開拓する為、幾度となく回りました。

彼の言った「社長、今回も地球の半分は回りましたね」という言葉が今でも忘れられません。

それほど、ハードなものでした。

その時は、残された短い時間の中で、早く結果を出さなければならないと必死だったのでしょう。

しかし、私自身も彼も悲壮感はなく、これを成し得れば、明るい未来が必ず待っているという感じで、早くまだ見ぬ恋人を見つけたい、何か、そんな楽しみにも近い思いもありました。

そして、遂に主力商品を安心して任せることの出来る仕入先を見つけ出すことが出来ました。

苦労を重ね分、その喜びと達成感は図りしれません。

それ以外の商品も、ことごとく、見つかっていきました。

僅か、半年間で、中国生産への移行を成し遂げました。

これにより、単品利益率も大幅に改善されました。

主力商品群は10%以上の改善、その他商品群は20%近い改善が実現しました。

商品の不良もなく、また、スキームとしても何ら問題なく、実にスムーズに現在も進行しています。

……………………最後に残された最大課題を解決し、ここに、長く長く、暗いトンネルの出口………そして明るい未来の入口が確実に見えたのでした。

そして、直轄管理を始めた、その年の決算ですが、売上は(昨年は上述の様に1億増加)実に1億下がってしまいました。

これは創業事業の落ち込みによるもので、この年、私が社長1年目に記録した最高売上から、過去最低の僅か30%までになってしまっていました。

創業事業は、それまでの10年間、1度たりとも前期を上回ることなく下がり続けていたのでした。(社員達も頑張ってくれてはいましたが………)

しかし、一方で、仕組みによる売上は安定増加しており、何といっても、その年の決算は、全体売上が昨年から1億下がったものの、仕組みによる売上の安定増加と、発注管理及び単品利益率改善の効果が見事に現れ、実質営業利益は6年振りにプラスに転じる結果を得ました。

間違いなく、これで復活出来る。

確信を得ました。

短い時間で課題を解決出来、最後の最後で、ようやく、間に合った感じでした。

あのまま…直轄管理にしなかったら………。

あのタイミングで中国に行かなかったら……。

価格や品質が合う仕入先に出会えてなかったら……。

解決時間がズレていたら………。

返す返すも、私は人に恵まれていると感じざるを得ませんし、また、これも、最後の最後、首の皮1枚で父が導いてくれたのかもしれません。

これで、一先ず当社は、改革を断行し終え、大きなベースが出来ました。

折しも、世間はリーマンショック後で、どこの会社も苦戦をしていて、軒並み利益を下げ、赤字会社が続出する中、当社は、売上は下がったものの、逆に利益改善が進み、営業利益を実質黒字計上出来ていました。

そうなると、金融関係からは、「社長とこは凄いですね」と言われる始末です。

これを機に金融関係にも協力を得て、貿易の枠組みを構築してもらい、キャシュフローも改善されて行きました。

その後は順調に営業利益は拡大して行くことになります。

そして、遂に100均向けサービス事業だけで、年間の一般管理費を賄う位に収益は上がって行きました。

簡単に言うと、この事業の利益だけで、人件費も含め、全ての経費が賄えるということです。

ということは、もはや創業事業が下がり続けようが、会社には何ら影響を及ぼすことが無くなったということを意味します。

少しでも売上があればプラスアルファとして考えればOKという状態になった訳です。

寿命を迎えていた創業事業でしたので、もうその動向を気にしなくても良くなり、それ以外でしっかりと社員達の「当たり前の生活」を担保してあげられる態勢が確立出来たことに、正直ホッとしました………。

また、新ビジネスモデルをベースにした新規事業も、プラスアルファとして捉えられますので、やればやるだけ利益を積み益すことになりますし、そしてそれを定量させられる時間を、タップリと確保することが出来きたのでした。

創業事業の落ち込みを、営業に頼らず、仕組みにより、売上と利益の安定増加を計る。

そして、次世代型ビジネスモデルにより持続性のある、新規事業を展開し、企業を安定成長させて行く。

当初、私が描いていたシナリオ通りになって来ました。

あとは、早急に、次世代の成長戦略である、新ビジネスモデルをもって営業活動をし、定着させ、推進して行くだけです。

しかし、営業部隊は、この新ビジネスモデルの初動活動を、なかなか定期的、定量的に前へと進めてくれません。

まだ、疲弊している創業事業に固執し既存顧客の業務に終始している状態でした。

10年間下がり続けている事実がありながら………。

まだ、大局観というか、俯瞰というか、仕事の本質や道理というものが理解されていない状況でした。

実際に携わる人の意識が変わらない限り、形に替わることはありませんでした。

このままでは前へ進まないと判断し、営業部隊を意識で動かすのではなく、まず組織として動かす仕組みに切り替えなくてなりませんでした。

そこで、当社では初めて新卒の採用をすることにしました。(その後、定期的に新卒採用を実施しています)

2010年、新卒を2名採用し、営業を組織化、分業化しました。

どんなビジネスも営業活動の本質は一緒です。

まずは案内活動(短時間で量を重視)次に商談→案件→クロージングと進んで行きます。(商談以降のプロセスは質を重視)

当社での営業における1番の問題は、初動の案内活動の量が定期的、定量的に出来ていないことでした。

その初動活動を新人営業部員が行い、それ以降のプロセスは上位者が行う様にして行きました。

初動活動の量が増えました。

そうすると、嫌がおうでも、上位者の人達は商談に行かなければなりません。

彼らは今までの経験があるので、商談を重ねれば、必ず案件を獲得し、クロージングに結びつけれるはずだ、と私は信じていました。

私の考えは的中しました。

新人2人も頑張ってくれ、その年には24社の新規顧客を創造することが出来ました。

当然、それに伴い売上も上がって行きました。

それ以降も新ビジネスモデル事業は毎年、20%位、増収増益を続けています。

しかし、これを更に、急成長させるには、あとは、やはり上位者の経営感覚、意識によるところが大きなウェートを占めます。

一時は、上述の様に、組織化して物理的、強制的に推進して行くことは可能です。

次に、その精度を高めて行く必要があるのです。

活動プロセスの進化・改善を進めなくてはなりませんし、私達のビジネスモデル自体も進化・改善をさせて行かなくてはなりません。

各々のプロセスを、いち業務として坦々とこなしているだけでは、進化はありません。

もはや、私が喧しく言っているだけでは無理です。

上位者が、経営感覚を持ち、本質を理解し、自らがそれらの進化・改善を議論、共有化し、そして営業活動に生かして行く、そして、これをみんなで繰り返す、この様なPDCA を自主的・主体的に実施していかなければ、折角の素晴らしいビジネスモデルでも鈍化してしまい兼ねません。

今、私が懸念するのは、もはや、その点だけになりました。

一方、あれだけ日々資金繰りに追われていた毎日も、仕組みによる売上の安定増加が図れ、また、利益改善、利益確保も順調で、社長直轄管理の年から、高収益体質に生まれ代わっていました。

リーマンショック後も増収増益を毎年継続し、各金融機関からは、絶賛の嵐です。

業績の素晴らしさや事業転換を成功させたことの凄さ、新ビジネスモデルのコンセプトの素晴らしさ、先見性、判断や決断、実行力、経営手法や管理方法などなど………。

有り難く、嬉しい評価ではありますが、やはり、世間は甘くない、「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということです。

みんなの「当たり前の生活」を守る為には、勝つしかないのです。

一生懸命やったけど結果が出なかったでは、自己満足や自身を慰めているだけで、誰も救うことは出来ないのです。

この時期をチャンスに、資金繰りの抜本的改革にも着手しました。

業績(PL)は、TKC指標の優秀企業以上になって来ました。

しかし、上述の事業の変遷からBSの改善には、少し時間を要することになります。

その当たりも考慮して、各金融機関の方々を一同に呼び、バンクミーティングを開催しました。

財務面の改善による話しを、皆さんに打診をし、快諾を得ることが出来ました。

これにより、資金の安定が計られ、資金繰りに格段の余裕が出来る結果となり、日々の資金繰りから開放されたのでした。

実に実に………長い道程でした。

振り返ると、10年近い月日が経過していました。

東京に行く前から、父には、事業転換と仕組みの構築をさかんに訴え掛けていました。

今、思えば、資金繰りに追われ続けた5年間も地獄でしたが、同等に変革を訴えても、誰からも理解されず、みすみす下がるのを見ておかなくてはならなかった時期も辛いものがありました。

もっと早くに変革をしておれば………と思ったりもします。

父の13回忌の法要の折、全ての改革が終わり、次の道筋を築くのに、10年を要してしまったんだなぁと、今までにあった様々な出来事が、走馬灯の様に頭に浮かんで来たのでした。

私の子供達も気が付けば、全員、大学を出る年になっていました。

上述の厳しい月日の中でも、私の両親が、私達、兄妹にしてくれたことと同様のことは最低してあげられたと思います。

しかし、それまでに、家族旅行はたった1回しか連れていってやれませんでしたが…………。

会社と同様に、私もPLは改善されましたが、今までの改革の過程で随分、自己犠牲をしてきましたので、これからBSの改善をしなくてはならないというところです。

振り返りますと、今回の改革は、私1人では、到底成し遂げられませんでした。

恐らく、途中で諦めていたことでしょう。

母、妹、家族の協力、社員達の協力、関係者の方々の協力、金融機関の方々の協力、親戚、友人、知人の存在、そして、父の存在………。

そんな方々の協力と存在が、私を奮い立たせ、今回の改革を成功へと導いてくれました。

私の思いは、全ての人達の「当たり前の生活」を守らなくてはならない。

この一念でした。

それは、今まで、父が守り、そして守って行きたいと考えていたことでした。

手前味噌ですが、この期間において、私が唯一自慢出来ることがあるとするならば、これだけの厳しい期間の中でも、資金繰りを理由に、社員を解雇したことも、給料を下げたことも、ボーナスを支払わなかったことも、給料が遅れたことも、ただの1度もなく、改革を実現したということです。

これだけの厳しい長い年月の間、社員達の「当たり前の生活」を損なうことなく担保してこれたということには心から安堵しています。

当時、私は若く、しかし、身内も社員達もそれ以上に考え方が甘く、まだ子供でした。

守ってあげなければならない人達でした。

「当たり前の生活」は、実は、当たり前でも、与えられるものでもないのです。

自分達が努力をして得なければならない代価なのかもしれません。

この10年、「当たり前の生活」をすることが、こんなに困難なものなのか?と何度も自問自答しました。

あれから10年経ち、社員達も随分、頼もしく、考え方も大人になりつつあります。

私達には、大きな目標、夢があります。

来るべき2020年には、1つの大きな大輪の花をみんなで咲かせなくてはなりません。

そして、私は、経営理念の実現にむけて加速をせねばなりません。

現在、成長した社員達となら必ず実現出来ると信じています。

ようやく、お陰様で、私もそして、家族も「当たり前」のを取り戻しつつあります。

今後、社員達と共に私達の「当たり前の生活」を守り、更に向上させていく為に、努力を続けて行きたいと考えています。

………この父の13回忌に当たり、成長した会社の報告が出来たことに、ホッとしています。

少しは父も安心をしてくれているのではないか?と思います。

そして、これからの、また1回り(12年)、私の仕事人生の集大成として、「誰が倒れても、みんなの当たり前の生活が守ることの出来る会社」の実現に向けて、全力で挑んで行く所存です。

そして、来る父の25回忌には、更なるよい報告をしたいと思います。

合掌