自分の限界
皆さん、こんにちは!
お変わりはないでしょうか?
もう早いところでは、忘年会云々という時期になって来ました。
呑む機会が増えるわけで、私も人の事は言えないですが、お互い体調管理には注意しましょう。
さて、今日は論語第2弾をお話ししたいと思います。
論語は孔子の弟子達が、孔子の言われた言葉を書き留めたものです。
今回は「今、汝は画れり」(いま、なんじはかぎれり)という言葉をご紹介します。
ある時、弟子の冉求(ぜんきゅう)が言いました。
「先生のおっしゃる道理は理解できますが、なかなか思うようには実践できません」
すると孔子は、怒りをあらわにして、「今、汝は画れり」(今、お前は自分の限界を設定し、やらない言い訳をしているだけではないか!)と。
つまり、冉求の言葉は、一見、「自分の実力はこれぐらいで、とても先生には及びません」というように謙遜しているように聞こえますが、孔子の目には、それは謙遜ではなく、自分を守りに入れ大事にしているだけで、それを「やろう」という勇気や、「やり抜く」という覚悟がない、というように映ったのでした。
非常に厳しい言葉で、あらゆるタイミングでこれを実践して行くには困難かもしれませんが、そこから逃げては行けない瞬間が誰にでもあると考えます。
会社であれ、社会であれ、地域であれ、家族であれ、私達は逃げては行けない瞬間につい、先程の冉求のように「そんな事を言われても、無理、無理」と言ってしまいがちです。
やって見なければわからないし、やって見たらそれほど大変ではなかったということも多にしてあるはずなのに、やる前から何故か決めつけてしまいます。
目標を立てるにしても、「自分の実力ではこのあたりだろう」と思っているラインよりも少し上を目指してやってみる。
それがクリアされれば、更に少し上に目標を設定し、やってみる。
何回かクリアされれば、最初、限界だと思い込んでたラインは軽々と越えていて、「何で、あの時、悩み限界だと思い込んでいたのだろう」と思うものです。
最初から限界を設定してしまうと、スイッチが完全にオフになり、それを越えることは絶対にありません。
たいていの場合、少し楽観的に「できる」と考えた方が、うまく行く感じがします。
これと、類似した考えとして、相田みつをさんは、「やれなかった?やらなかった?どっち」というような詩を残されています。
また、稲盛和夫さんは「未来進行形で考えなさい」というような言葉をおっしゃっています。
これは、「今の自分では難しくても近い将来の自分なら可能なはずだ」と考えなさいという意味です。
自分の限界というものは、他ならぬ自分自身が造り出してしまっているのです。
しかし、いずれにせよ、仕事、人生において逃げられない瞬間というものは誰にでもあるものです。
その時、この言葉を思い出し、1歩前に踏み出す勇気として頂ければ幸いです。