百聞は一見にしかず~part2~
皆さん、こんにちは!
最近は、少しずつ日も長くなってきましたし、寒さも若干和らいできた感じがします。
間も無く3月になるわけですが、3月の声を聞くと、漸く長かった冬も終わり春へと季節が進んで行くという期待感みたいなものがありますね。
さて、先週のブログでは「見聞」ということについて書かせて頂き、その中でも「みる」について掘り下げて話しをさせて頂きました。
「みる」と一概に言っても「見る」「観る」「察る」そして「診る」があり、ただ単に表面的な部分を「見る」のではなく、時系列で物事を「観て」、且つその物事についての目的・意図・本質といったところまで「察る」、そこまで「みなければ」物事の全体像が「みえた」ことにはならない。
そして、それらの情報を基に最後に「診る」ということをしなくてはならない。 この「診る」は、情報を基に処方し、具体的な行動を行わなうということです。
いくら全体像が「みえた」としても、行動が伴わない知識や情報では何の役にも立たない。 「診る」ということをして初めて、「みえた」ことになります、というような内容でした。
そこで今日は「見聞」の「きく」について書かせて頂きます。
「きく」についても「聞く」「聴く」「訊く」があるそうです。
まずは「聞く」ですが、これは音が自然に入ってくるような状態の「きく」ということだそうです。
ただこの「聞く」にも、①無視する②聞くふりをする③選択的に聞く④注意して聞く、というレベルがあるようです。
私自身も耳が痛い感じがします。
次に「聴く」ですが、これは相手の関心事に注意を払いながら「きく」ということだそうです。 先程のレベルの話しに戻りますが、「きく」には5つのレベルがあるそうですが、4段階までは上述の「聞く」に該当し、最高レベルの5段階では⑤感情を移入して聴くとされ、この「聴く」に該当します。
すなわち「聞く」という状態は、自身の見地の範囲内で、しかも自身の勝手なレベルで相手の話しをきいているにしか過ぎません。
一方、「聴く」という状態は、相手の立場になって、相手の見地の範囲内で行われているということです。
同じ「きく」という行為でも「聞く」と「聴く」は立ち位置が真逆なのです。
最後に「訊く」ですが、これは相手に質問をしてききたいことを引き出すという意味合いの「きく」だそうです。
いくら「聴く」という状態できいても、理解できない所や納得できない所などはあるものです。
その場合、「訊く」という行為によって、互いにより共鳴、共感出来るものだと考えます。
また、仕事のうえにおいて情報収集という意味合いからも「訊く」という行為は重要です。
しかし、「訊く」に進むにしても、「聞く」から「訊く」に移ってしまうと、相手の感情を害してしまうかもしれません。
私も多くの人とお会いしますが、一方的に自身や自身の会社の説明をして、こちらの話しにはあまり興味を示さず、また、自身が欲しい情報だけを訊きたがるという人もおられます。
まずは「聴く」そして「訊く」へと移行して行くことが、相手からも共感され信用されることになるのかもしれません。
こう考えると、当たり前のように日常している「みる」「きく」という行為も奥が深いと感心させられます。
私達もこれらの意味合いを理解したうえで、少しずつでも自身の「見聞」が広がるようにして行きたいものですね。