父 13回忌 ~回想録 後編~
皆さん、こんにちは!!
今週は引き続き、先週からの「父13回忌回想録」ということで後編をお送りします。
回想録のキーワードは「当たり前の生活」ということです。
私の友人も、エクアドルに渡りビジネスを始め、現地の方と結婚をし、子供を2人もうけて、ごく当たり前の生活をしていましたが、政情不安から日本に家族を連れての帰国を余儀なくされました。
奥さん、子供達にとっては異国の地でもあり、友人にとっても、今までのキャリアで飯を食べれる訳でもなく、日本でまた一からの出直しとなってしまいました。
「当たり前の生活」が一変してしまったのです。
今、彼は、また「当たり前の生活」を取り戻そうと一生懸命頑張っています。
東北大震災や原発事故で被害に逢われた方々も、また、一瞬にして、「当たり前の生活」が失われてしまい、今も尚、「当たり前の生活」を取り戻す為、必死で頑張っておられます。
「当たり前の生活」をしている時には、その幸せや有り難さはわからないものです。
失って初めてわかるものかもしれません。
…………中小企業において、会社=社長家となっているところが大半だと思います。
社長が亡くなるだけで、その家の「当たり前の生活」は崩れてしまいます。
つい最近も会社の仕入先の社長が急死をしました。 まだ、40半ばです。 その後、その会社は廃業をされましたが………。
まず会社が安泰であること、これがその家族にとっても社員にとっても「当たり前の生活」を続けて行く為には不可欠です。
ましてや、会社が不安定な時期に社長が亡くなることは「当たり前の生活」が著しく損なわれる結果となります。
(後編)……………父が亡くなってから、葬儀を終え、主要得意先や仕入先の挨拶を済ませ、東京に戻り、今後のことについて家内と話しをしました。
この時、今までにない過去最大の夫婦喧嘩が勃発しました。
当時、子供達は、中学生と小学生でした。
その3年前に東京へ来て、ようやく自分達にとって「当たり前の生活」が定着してきたところでした。
そこでまた、親の勝手で、大阪に戻るというわけには行かないし、これから思春期に入る難しい年齢にもなって来ますので、子供達の環境を一番に考えて東京に留まることにしました。
ただ、子供達3人はほぼ年子ですし、東京の高い教育費を考えると金銭面では大変でしたが……
しかし、その金銭面の問題ではなく、次の問題が家内の逆鱗に触れた様です。
私達は子供達のことを優先的に考えて、東京へ留まることにしたのですが、私が、それならば「私1人、単身赴任で大阪に戻る」と言った瞬間でした。
私自身、私が大阪に戻るのは、会社のことがあるので、当たり前だと考えていたのですが……。
しかし、烈火の如く家内は怒っています。 「家族と仕事、どっちが大事」ということでした。
どうも東京を主体にしながら社長業を行うと思っていたみたいですが……。
今思えば、家内も若く、まして中学生や小学生の子供達を抱え、金銭面も余裕はなく、東京に1人残され、周りには頼る人は誰もいない、そんな状況です。
家内にとって「当たり前の生活が崩れる」 そんなどうしようもない不安感があったのだろうと思います。
当時の私には今ほどの気持ちの余裕はなく、「会社を守らなければ家族も守られへん。サラリーマンやったら単身赴任は日常茶飯事や」と言って、互いの結論は出ないまま……それでも大阪に戻って社長業に就かなければならず、半ば後ろ髪を引かれる思いで、東京をあとにしました。
兎に角、毎週末は、出来るだけ東京へ戻る様に努めたものの、私達にとっては当たり前ではない生活がスタートをしました。
大阪に戻って見ると、相変わらず本社の売上は下降線を辿っていました。
且つ、財務内容は自転車操業に近い状態でした。
まず、メインバンクに私の考えや方針を伝えなくてはならないと思い、担当者ではなく、支店長に再三連絡をしましたが逢ってもらえず、アポが取れるまで毎日電話をしました。
そして、ようやく、逢うことが出来、私の考えや方針を色々お話しをさせて頂きました。
後日、担当者から聞いた話ですが、当初はコシオカ産業を切ろうと考えていたそうですが、就任して逢えるまで毎日連絡をしてくる姿勢や考えと方針を聞いて、対応を180度転換したということでした。
もし、あの時、毎日アポを取らなかったら……。
もし、違う支店長だったら、どうなっていたのか……。
「当たり前の生活」はなくなっていたかもしれませんが、その時は必死でした。
そういった気持ちが通じる方と巡り合えて本当に感謝しています。
これも父の導きかもしれません。
その支店長とは、彼が銀行を離れられた今でも交流があります。
私の社長就任1年目は、銀行の危惧とは裏腹に、本社の売上は下がっていたものの、東京で丸井百貨店のリニューアル物件やユニクロの物件など立て続けに決まっていて売上が急増し、快進撃を続けることが出来ました。
1年目は、お陰様で過去最高の売上と利益が計上出来ました。
(その後、創業事業は 疲弊の一途を辿り、ピーク時から見て、売上が10年間で70%のダウンとなります)
その時の決算は、私が以前、新事業創設に対し投資をした分(先週ブログ参照)を回収しても良かったのですが、父の功績を何よりも1番に考慮した決算としました。
そうしてあげることによって、父の功績・威厳を保つと共に、周りにとっても「当たり前の生活」をする上で、いつか?役に立つものだという思いもあり、その様にしたのでした。
そしてその1年目の業績を持って、矢継ぎ早に会社として出来ていなかった様々なことに着手しました。
制度設計、ISO の導入、人事育成制度、賃金体制の透明化、コンサルタントの導入、販売管理システムの導入、金融機関との新たな取り引き、そして中国工場の設立など数年の間に企業としての礎になる投資を行いました。
何故なら、創業事業は、全てが家内工業、町工場の域を出ておらず、限界・寿命を迎えていたので、今、企業としての礎を構築しておかなければ、必ず当社は厳しい局面を迎えることになる、その時には、したくても出来ないし、また、礎を構築したからといって直ぐ社員が理解し、それを活用して結果を出す様になるには時間を要することになるだろう?
そんな考えから、先じて少し余裕のある時に実行しておく必要がありました。
云うならば、今後、訪れるであろう厳しい局面の折り、会社が浮上する為に、出来るだけ、活用できるツールとして準備をしておかなければならなかったのでした。
そして、いよいよ、その時がやって来てしまいました。
創業事業は相変わらず下がる一方で、東京の売上も、私が常時居なくなった関係やメイン顧客が自社中国工場へ生産をシフトし、激減していきました。
遂に、創業事業に代わる新たな事業を早急に構築しなくてはならない時期に来ました。
当時あった経営資源では一足とびには無理です。
そこで踊り場的に、まず安定した売上を確実に計上できる仕組みを構築する必要がありました。
何故なら、まだ営業力に頼った売上では不安定だったからです。
それでは経営が成り立ちません。
このままでは、社員達へも「当たり前の生活」を担保することが困難な状況に成りかねませんでした。
組織として、仕組みとして、確実に毎日注文が入り、売上を計上できる形を創る必要に迫られました。
そこで数年前より取り引きのあった100均業界へのサービスとして、受注生産による一括導入ではなく(これでは注文が入るまで、待つという受身のビジネスの為、売上が計算出来ません)、各店舗から毎日個別に注文を受ける形に切り替えました。
その為には、まず全ての商品において1ヵ月以上の在庫を用意しなければなりません。
それに加えて、各店舗からの注文に合わせて商品をピッキングしなくてはならず、その為の人員が必要になります。
また、今までは一括導入でしたので運賃は然程、気にしなくても良かった訳ですが、1ケース毎の出荷になる為、運賃に莫大な費用を要することになります。
その他、段ボールケースも商品をピッキングする際に必要になり、コスト高となってしまいます。
また、これらを稼働させる為、EOSやEDIと呼ばれる仕組みを運送会社・顧客と結ぶ必要があり、初期投資もバカになりません。
それらを整備してスタートをしたのでした。
しかし、当初の3ヵ月は殆ど注文が入らず売上があがりませんでした。
というのは、先方の倉庫に在庫が残っていて、それが無くなるまでは、注文が入ってこないということでした。
先方に代わって当社で在庫を抱えなくてはならないし、出荷人員も確保してありました。
売上があがらず、キャッシュフロー的には大赤字という期間が長く続きました。
4ヵ月目から売上が上がりだしました。
しかし、上述の販売運賃、副資材、人件費、在庫、これだけの負担を利益の中から捻出しなくてはなりません。
売上は順調に上がりだしましたが、付帯経費が重く、なかなか黒字転換には至りませんでした。(04年4月から、このサービスをスタートし、当時、上位者から順番に管理をさせて行きましたが、結局、直轄管理をする09年まで、実質赤字が続きました)
私は今後、訪れるであろう危機に備える為、安い金利で資金を億単 位、用意をしていました。
しかし、毎月のキャッシュフロー赤字によって、簡単に底をついてしまいました。
また、一時の自転車操業に逆戻りです。
ただ今回は、創業事業の様に、売上が下降の一途を辿った中での自転車操業ではなく、改善途中に起こる資金の圧迫で、この仕組みが構築され結果を出すことができたら、その後は、ひとまず安定するということは100%確信がありました。(あとは結果を出すまでの時間との勝負でした)
そして、それが安定した後、その間に新事業を立ち上げ軌道に乗せ、成長企業へと導いて行く、そんなシナリオを描いていました。
実は、現在当社の推進する新事業、ビジネスモデル(現在のところ、毎年、増収増益です)はおぼろ気ながら約10年前より持っていました。
その時は資源を賭けることに限界がありましたので、まずある人物に、彼の将来のことも考え、CADを習わせることから始めました。
恐らく、これがビジネスモデルの中で一番時間を要することになると考えたので、10年程前より着手したのでした。
中国工場設立と同時期(2002年頃)に、簡易な試作機を購入し、「潰してもいい」との考えで、その彼に遊び半分でCAD を始めさせたのでした。
話は戻り、売上は毎日上がり出し、売上だけは計算が出来る様になって行きました。
ただ、上述の仕組みによる新たな顧客へのサービスから、付帯経費が増大し、営業利益を出すには、ほど遠い状況です。
売上を安定増加させながら、一般管理費を年々削減(5ヶ年計画で、社員の解雇及び給与のカットなしで約4000万の削減目標)そして並行して単品利益率の改善を行う道筋で行けば、必ず損益分岐点を越える時期が来て、利益は増大して行くはずです。
①仕組みによる売上の安定増加 ②一般管理費の削減 ③各商品の利益率改善
あとは、私達に残された時間の中でそれが出来るか?どうか?に会社の命運は架かっていました………。
(今週で終わるつもりでしたが、やはり、ここ十数年の回想録ですので、考えていた以上に長くなってしまいました。最終の完結編として、残された短い時間の中でどうしたのか?は引き続き来週のブログで記載させて頂きたいと思います。来週には回想録は終了したいと思います。重ね重ね本当に申し訳ございません。よろしくお願い申し上げます)